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若菜集は俳句実作練習の一方法として設けられている欄です。兼題が示され、選者も毎月交替されますので、自分の詩想を試す場になっています。この欄の投句の中から、教材になるテーマを選んでこのページを構成してみます。 |
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◆景山 みどり先生/添削句から
◆吉岡 新風先生/俳句は五七五のどこかで切る必要があります
◆河瀬 千草先生/俳句にも主役がいます
◆矢野 きよ子先生/俳句は省略を前提にして成立する詩です
◆田中 靜龍先生/私の生活の記録です
◆神田 夢城先生/俳句は「一部分を正確に描写」しましょう
◆原 千春先生/俳句は季語に語らせるものです
◆大森 つゆ先生/人生の一助に、楽しくなる俳句をしましょう
◆山本 八杉先生/俳句は季節感を匂わせものに仕上げましょう
◆八田 彩女先生/沢山作って沢山捨てる
◆佐々木虹橋先生/内容に合ったリズムを選びましょう
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○更衣足取り軽く通院日
足取りも軽く通院更衣 (韻文表現に)
○新緑の銀輪風の抜けて行く
新緑の風銀輪の抜けて行く (源句では筋も通りにくい)
○古稀の身も少し派手めの更衣
古稀の身の少し派手めの更衣 (「も」は使わない。句が説明的になる)
○小綺麗な婆で居たくて更衣
小綺麗な婆で居りたく更衣 (「居」は名詞、「たく」は連用形につく)
○自転車子新緑の朝風切つて
自転車の子新緑の風切つて (「自転車子」は不自然)
○新緑や笛の音流る大祭礼
新緑や大祭礼の笛流れ (笛の主体をはっきりする)
○白シャツにのり固くして更衣
シャツにのり固くきかせて更衣 (「固くきかせて」でその感じが出る)
○生き方も変へても見ぬか更衣
生き方を変へても見むか更衣 (「ぬ」は完了の意味、「む」で推量の意味になる)
○病癒え新緑の径歩ゆむ母
新緑の径にのばす母の試歩 (理屈のつくものは詩にならない)
○乳母車双子揃ひの更衣
双子とし生れ揃ひの更衣 (季語の主体をはっきりと)
○もひとりの我と連携更衣
もひとりの我の顔あり更衣 (「連携」はダメでしょう)
○老ひてなほ明るき物に更衣
老いてなほ明るき色に更衣 (「物」では一般的。)
○人並みに選ぶ薄色衣更
控へ目に選ぶ薄色衣更 (「人並み」では特別の趣がなさそう)
○御柱新緑真中揺ぎ無し
新緑の真只中なる御柱 (「新緑真中」はいかにも無理)
○柏手が新緑の杜返りくる
新緑の杜柏手の谺せる
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よく説明の句とか報告の句と言います。それはそれで意味がありましょうが、詩とは言えません。詩にするためには大体「どこに感じが込められているか」というところに切れ字を使う場合が多いようです。元の句と手を入れた句を比べてみてください。 |
原句 深山路の杓の添えあり湧清水
深山路や柄杓添へある湧清水 |
原句 蒼く透く湖底生まるる清水かな
蒼く透く湖底に湧ける清水かな |
原句 岩清水オアシスと云ふ工事人
オアシスと云ふ工事人岩清水 |
原句 郵便夫宮に一服清水かな
郵便夫宮に一服清水汲む |
原句 岩清水堰のひろがり菜を洗う
岩清水堰に満ちたり菜を洗ふ |
原句 浴場の床にころびて裸の子
浴場の床をころげる裸の子 |
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今回の兼題「氷菓」には、なつかしい昔の氷菓売りの句が三句もありました。
戦前から戦後にかけて自転車で鐘を鳴らし、午後の2時頃でしょうか。小父さんがアイスキャンデーを売りに来られました。子供たちが喜々として周りをとりかこみ、自転車の荷台から取り出される氷菓を買う日々でした。次の句、状景はよく分かりますが、言葉の順序を入れ替えてみます。 |
原句 氷菓売りの自転車待ちし遠き日々
遠き日の自転車で来し氷菓売り |
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俳句には主役がいます。ある時は作者であったり、作者以外の人や物が主役の場合は、必ずそれを見ている作者がいるのです。
この句の主役は「氷菓売り」で、作者はそれを見ているのです。
私どもの暮らしの中に、こんな面白い(か、どうかは作者が決めること)ドラマが沢山あります。俳句はそこをつかむのです。
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原句 三年漬く中元らっきょたがわずに |
毎年かならずお中元に辣韮漬が来るというのは中々良い句材で面白いと思いますが、少し欲張りすぎです。
辣韮漬が毎年かならず来ることも、それが三年ものの辣韮漬であることも云いたいでしょうが、どちらか一つにします。 |
添削 中元に三年ものの辣韮漬 |
この句に限らず、俳句は思いのたけを縷々(るる)述べる詩ではありません。
俳句は一点一瞬を云ってその周囲と前後を暗に表現する詩なのです。
執着している言葉は一度外してみるのも良い方法だと思います。 |
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高浜虚子師は「私の俳句は、私の生活の記録である。」また「生活の記録であるけれども、それは唯の記録せいさくではない。春夏秋冬の現象を透しての生活の記録である。」と述べている。
私達の俳句もそうありたいと思う。稲畑汀子師からは「作品を通して作者の貌の見える俳句を心がけることが大切。」と指導を受けている。 |
板の間に寝る褌の生身魂 |
この句の板の間は町家や新建材の住宅ではなく大きな藁屋根で通し土間が広く風通しのよい農家を想像する。
次に現在、褌を着ける方は明治、大正時代の生まれの高齢者である。その主人公は働くことが幸せと信じ朝間の仕事をして半袖シャツに褌で昼寝ができる健康な方であろう。そのような方に盆礼に訪問する作者と主人公とは親子かなと思わせる。生身魂という季題で作者の貌の見える好句に仕上がっている。
このように淡々と事実を述べ、そこから生まれる余情、余韻を楽しめる俳句を詠みたいものである。 |
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俳句の表現もしっかりと見たもの(一部分、一場面)を正確に描写することで自分の受けた感じを、かなり正確に人にも伝えることができるものです。 |
原句 寝台に月を見せたし母の顔
添削 病床の母に見せたし今日の月 |
身体の不自由な寝台の母上に月を見せてあげたいという句意を言葉の順序を吟味して素直に述べてみましょう。 |
原句 とり入れ前颱風襲来農悲惨
添削 とり入れを間近に控へ颱風来 |
一句の中に言葉が詰め込み過ぎで窮屈になっています。「農悲惨」の説明は省略してみましょう。 |
原句 川流れ土橋かかりて月明り
添削 枝川に架かる土橋や月明り |
場所と辺りの情景が想像できるものにしましょう。 |
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俳句は作者と読者の頭の中にある経験を刺激して季語に物語をしてもらうのです。 |
原句 千の風妖精があそぶ花野かな
添削 妖精も風と遊ぶや大花野 |
原句 百草のチリメン波立つ花野風
添削 花野風チリメン波の立ってをり |
原句 橋の町水の町なり秋の燈
添削 橋多き水都松江の秋ともし |
原句 沈みては花野の蝶となって舞ふ
添削 蝶沈みあるいは舞へる花野かな |
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俳句を作るということは、良き師、良き友を沢山持っていることと同じだと思います。老いてゆくほど味が深くなり、春夏秋冬四季を通じて自然に親しみ、適当に頭の体操ができます。書に絵に文章に表現することで孤独から抜け出すことができます。
沢山作って沢山捨てて、毎日が楽しくなるような、毎日に希望が持てるような俳句をしようではありませんか。 |
原句 秋耕や広田の中の城主墓
添削 秋耕や棚田の涯の城主墓 |
原句 秋雨や畑の捨菜の山鴉
添削 秋雨や畑の捨菜に鴉群れ |
原句 読むことは出来ても書けぬ秋の雨
添削 読むことは楽書くはむつかし秋の雨 |
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俳句は四季折々の自然現象を捉え、そこに相応しい季語を以て十七音にまとめる詩です。
今月の兼題である「秋の空」について「新日本大歳時記」では
代表句に |
◎草山に馬放ちけり秋の空 夏目漱石 |
をあげ、
「草山の風、馬の息づかい、そしてどこまでも澄みきった秋空のひろがりを感じとる。」と鑑賞しています。
「秋の空」に対する情感は誰でもほとんど同じですが、その景は人によって異なるはずです。
今月の提出作品に次の句がありました。 |
▲ 秋空に裸木天に突き刺さる
▲ 秋の空しゃぼん玉虹の色含む |
何れも描写されている景は分りますが、裸木(冬)、しゃぼん玉(春)が句の主題になっています。
兼題は「秋の空」ですから、題の季節感に合っていません。やはり俳句は季語を読むものですから、季語の季節感を匂わせるものに仕上げて欲しいと思います。
句作りに困ったときには古今の有名な人の句や信頼しあこがれている人の作品を読んだり鑑賞してみるのがよいと思います。 |
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「どうしたら俳句が上手になれるのか」とよく聞かれます。かつて私も先輩などにそんなことを聞いた覚えがあります。
よく云われるのは、沢山作って沢山捨てる。省略も推敲も大事なことですが、いい句を作るためにはいろいろな事に興味を持って、自分を肥やすことがいちばんだと思います。
文章も俳句も所詮その人の人となりが現れます。豊壌な土地にこそ素晴らしい収穫があると信じて努力を続けることと思います。 |
末枯の進む二の沢三の沢
(末枯の様子が見えてくる句) |
我家の燈温しと思う暮の秋
(暮の秋 が納得出来る句) |
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今月の課題は「末枯」「暮の秋」でした。末枯という状態を理解されていない句や、「暮の秋」と「秋の暮」と同じに考えておられる句もありました。まず季題を正しく把握することが大切です。とに角、歳時記を読みましょう。 |
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「若菜集」には兼題があり作句力の向上に役立っています。 |
農に遠き指よ勤労感謝の日 |
此の句は今回の若菜集に出句された一句です。季題は「勤労感謝の日」、十七音の大半を使っての作句。字余り≠ナ叙してあり苦心の跡が見えます。句意は離農の農民俳人の感慨がよく現れています。
俳句は有季定型を原則としますが、時には字余りも許されます。字余りはリズム感に欠けますが、文学的許容として認められている様です。古今の名句にも、芭蕉の句にもよく見られます。季重なりや切字の乱用は避けましょう。「切字」とは「や、かな、けり」などが代表的ですが、重復すれば句意の主点が弱まるのです。季重なりも同様です。 |
降る雪や明治は遠くなりにけり |
有名な中村草田男の句ですが、典型的な「や、かな俳句」です。それに気付いた草田男は慌てて取り消しを求めましたが、既に広く人口に膾炙(かいしゃ)されていました。日本人の懐古趣味がそうさせたのです。草田男ほどの高名な俳人でも失敗があるのです。そのため、この句は草田男にとって生涯の十字架になったと云われています。 |
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